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弔辞 多摩大学第二代学長 中村秀一郎氏を偲んで

[2007年10月25日]

 秀さん。貴方はいま長い闘病の苦しみから解放され、あの世からここにいる僕たちを眺めてニッコリ笑っているだろうか。僕が「百万ドルの笑顔」と名づけ、機会あるごとに得意になって吹聴して回ったあの笑顔で…。もう四〇年以上も昔初めて貴方に会って以来僕は、知性と品格と優しさの交じり合った何ともいえない貴方の笑顔に魅了されつづけた。

 日本の学界で、初めて会った僕をそんな笑顔で魅了した人は、これまで只の一人もいない。以来僕は何時か貴方のような人と一緒に仕事ができる日の来ることを念願するようになった。が、それが成就したのは、僕が田村学園の田村邦彦理事長から新設大学の責任者のご依頼を受けた八〇年代後半になってからだった。僕は誰よりも先ず、貴方に会いに行った。

 当時貴方は専修大学の看板教授であっただけでなく、斬新な中小企業論やヴェンチャー論で名を成し、それこそ八面六臂の活躍をしていたから、さすがの僕もいきなり「新設の大学に来てくれないかと…」と切り出すわけにもいかず、最初は、この大学設立に託する僕の構想を力説した後、この構想にぴったりの人材の紹介を懸命に頼むふりをしてみせた。

 僕の話を聞いていた貴方はやがて「ぴったりの人間は、たった一人だけだね」と呟いた。「それは、誰?」という僕の問いに数分間ただ微笑むだけだった貴方に、「冷たいよ、中村さん、その人どこにいるかぐらいは教えてよ!」と思わず僕が意気込んだ瞬間、貴方は右手の人差し指で自分を指差してニッコリ笑って言った。「貴方の構想に心動かされたんだ…」と。

 唖然とした僕の心中には、長年の念願が適ったという喜びと、多摩大学は必ず成功するという確信が湧き上がった。その確信どおり多摩大は、初年度の入試倍率三三倍という驚異的数字で大学界にデビューできただけでなく、開学するや、教学・経営両面で打ち出した数々の斬新な施策によって、一躍「大学改革の先進モデル」として世間に名を成した。

 もしそうした事実が創設期の多摩大の成功と言えるなら、僕は誰に対してもためらいなく、その功績の過半を貴方の存在と活躍によるものだと断言してはばからない。確かにその間僕は初代学長ではあったが、対外的業務に追われつづけた僕に対して、学内業務を適切に裁き、学内の人心を見事にまとめた貴方こそ、実質的学長といってよかったからだ。

 だからこそ、学長の任期満了を意識し始めた頃、僕は再び貴方に次期学長を引き受けてくれるよう話をもちかけ、断る貴方を粘り強く説得して遂に次期学長に就任することを承諾してもらった。だが何と、就任を翌春に控えた晩秋病魔が貴方を襲い、思いがけず僕は任期満了後半年間、毎日祈るような気持ちで、学長である貴方の代行をつとめたのだった。

 貴方を知る全て人々の願いも空しく、また和子夫人の涙ぐましいまでの介護にもかかわらず、貴方はその後十数年の療養生活の後帰らぬ人となった。しかし、貴方の人間的魅力は、多くの人々の記憶の中でなお鮮明に生きつづけている。とくに傘寿を過ぎた僕は、遠からずあの世で貴方に再会できることを楽しみに、ここで暫しのお別れを申し上げたい。

「散る桜、残る桜も散る桜」。秀さん。あの笑顔で僕たち一人一人を必ず待っていてください…。

 二〇〇七年十月二十五日
 野田 一夫

 

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